そろそろ年賀状のことを考えねばならない時期になりました。とっくに年を越し、まだ書き終わらないまま寒中見舞いの時期に突入。そしてとうとう一部の方には出せずじまいで断念したのが、つい先日のことのように思い出されます。でも今年も残すところあと37日。ぞっとしますね。
今朝は、月当番で町内にあるお大師さんのお祀り係でした。旧暦の二十日、二十一日。
今日は神無月廿日ということになります。

こっそり「プチ八十八ヶ所」と呼んでいるのですが、この近辺にはこんなお大師さんのお堂が八十八ヶ所あって、各町内で維持管理されています。西日本各地にある「四国霊場八十八ヶ所のミニチュア版」といえば解りやすいでしょうか。
お祀り、といっても最近では、お掃除をし、提灯をさげ、お茶とお花をお供えするだけ。かつてはお大師講などもあって、当番の家はけっこう大変だったと思いますが。
というような話を東京の友達にしたら、すこし怯えたような表情すら浮かべて「やっぱり地方って大変ねえ」と言われましたが、でもマンションの管理組合だって大変そうよ。

お大師さんなどの周りは猫スポットでもあります。
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以下の文章は、昨年の春、ハンガリー在住の女性が発行する『地球・かぞく通信』という通信に書かせてもらったものです。いつもの感じの、あまり目新しい内容ではありませんが、このお大師さんのことが出てくるのでよかったら。
「五円玉と信心」 田中美穂
この春先のことです。いつものように店番をしていると、「ごめんください」と小柄な
おじいさんが入って来られました。帳場の前でゆっくりとお財布から十円玉を出すと「こ
れを五円玉に替えてもらえんでしょうか」と言われます。あ、いいですよ、と答えて両替
をすると、またゆっくりともう一枚出して「これも五円玉にいいですか」と。そうやって
五十円ぶんを五円玉に交換したところで、さすがのわたしも不審におもいはじめていまし
たら、察したのかおじいさんは「このあたりは仏さんがたくさんありますよって、どうし
ても五円玉でのうては。十円ですと “とおえん” になる言いますからなあ」と。
なるほど、わたしの店のある一帯には、お大師さんの小さなお堂が何十とあるのです。
おじいさんは、そのひとつひとつに「“ごえん” がありますように」と五円玉をお供えしよ
うとしているのでした。
二十一歳の時、失業を機にふと思いたって、手持ちの本数百冊を並べただけで始めた古
本屋らしきものは「一、二年もてばいいほうだろう」という、自分自身を含む周囲の人全
ての予想を裏切って、今年十六年目を迎えました。
「ええっ!あの店まだ続いてるの?」とは、数年ぶりに再会した人などに必ず言われるセ
リフ。でも、こうして続いてきた理由というのは、おかしな話ですが、ひとえにわたし自
身が不器用だったからだと思うのです。
古本屋というのは、外からみえるのんびりとしたイメージとはうらはらに、なかなかの
重労働。この通信を読まれている方ならば、一度ならず引っ越しのご経験があるかと思い
ますが、本というものは段ボールひと箱程度でもバカにならない重量です。しかも、場合
によっては、家一軒分の蔵書すべて引き取ることもありますので、その移動だけでも小規
模な引っ越し並。さらにそれらを、自店に並べるもの、同業者間で交換するもの、古本市
などに出品するもの、そして最終的には古紙回収に出すものとにより分け、「商品」とし
て通用するものについては落丁や書き込みの有無をチェックし、汚れを落とし、傷んでい
れば補修をし、値段をつけ、棚に並べ、また専用の箱に詰めて…と、こんな基本中の基本
の作業すら、いつおわるとも知れません。なにしろ「ぎっくり腰やって、やっと一人前」
といわれる世界です。そして、それでも、なぜいままでつぶれなかったのか、と当の本人
すら不思議に思うほど、いつまでたっても儲けらしい儲けも出ないのです。
たいへんご尊敬申し上げている古書店主の方の文章に、
脱サラ、編集者くずれ、役者くずれというのはあっても、「古本屋くずれ」はない。も
うこれ以上崩れない場所らしいのだ。
内堀弘『石神井書林 日録』(晶文社)
という一節があり、なるほど、と唸ったことがあります。
人生のある局面で古本屋という職業を選択した人の大半は、大なり小なりそんなふうに
「他に出来ることがなかった」という部分を持っているものですが、でも、その一見ネガ
ティブにも思える現実も、考えようによっては強みになるのです。
どんなに腰が痛かろうと食うや食わずだろうと、とにかく毎日もくもくと、この自分の
小さな店で、仕入れた古本の汚れを落とし棚に並べてゆくしかないのです。他に道はない
のですから。
そうして、もうだんだんと成り立つとか成り立たないとか良いとか悪いとか、そんなも
のを超越して、ただひたすら続けるということのみに意識が集約されていきます。それは、
冒頭のあの「五円玉でなくては」というおじいさんの、かたくなな信心にも似ていて、そ
して、じつはそこに一番重要なものがあるのだろうとも思うのです。
「あなた、商売は下手だけど、人にはものすごく恵まれているわね」
わたしと近しい人ほど、実感をこめて言ってくれる言葉ですが、確かにこれまで、ただ
ひたすら帳場に座り古本の売り買いを続けてきたというだけで、思いも寄らぬ出会いやつ
ながりに恵まれてきました。わたしはこのことを「めくるめく固着生活」と呼んでいるの
ですが、このたびこうして『地球・かぞく通信』に文章を書かせていただくようになった
のもそのひとつ。生まれ育った小さな町で、じっと古本屋の店番を続けているからこその
ものです。
かたくな、という言葉は、日ごろあまりいい意味ではつかわれませんが、でもそれは、
継続ということだけでなく、ひろがりやつながりの種にもなるのだろう、と最近、五円玉
を見るたびに思うようになりました。
(おわり)
※2009年4月『地球・かぞく通信』(ハンガリー)