昨日は『彷書月刊』の編集長で、なないろ文庫ふしぎ堂という古本屋の店主でもあった田村治芳さんのお葬式でした。田村さんとは、お電話で何度かお話をしたことがあるだけで、ついにお目にかかることは出来なかったのですが、でもわたしが古本屋を始めたのも、いまもこうして続けていることが出来るのも、田村さんのおかげだと思っています。
蟲文庫という、へんな屋号にしてしまったおかげで、何かのたびにその由来を尋ねられるのですが、いつも「店を始める時に「ナントカ文庫」にしたくて、それでいろいろ考えているうちに、なんか字面が気に入って……」という曖昧な返事しかできません。これは実際にその通りだからで、このなにやら意味深げな「蟲」の字のほうは、本当に「ただなんとなく」だったのです。そして、自分にとっては格段に重要だった「文庫」のほうですが、これは、田村さんの影響でした。
古本屋になろうと思い立つ少しまえのこと、偶然テレビで見た古本業界についての番組で、振り市(※古本の競りのようなもの)の振り手を務める、当時はまだ長髪で、「若手」と紹介されていた田村さんの姿と声音、そしてなないろ文庫ふしぎ堂、というふしぎな名前を知って、たぶんその時に取り憑かれたのだと思います。それからほどなく、ひょんなことで古本屋を始めることになり、さて屋号、となった時、まっさきに思い浮かんだのが、あの時テレビでみた田村さんの姿と「なないろ文庫ふしぎ堂」でした。
ちなみにその番組は、出久根達郎さんが直木賞を受賞されたのがきっかけで、市場にはじめてテレビカメラが入った時のものだ、と後に古書現世の向井さんから伺いました。
これは、いままでも何度か書いたので繰り返しになるのですが、店を始めた当時は、まだインターネットという言葉すらも一般的でなかった頃で、古書組合に加入していない者にとっては古本に関する情報など皆無といっていい状態。本が好きだというだけで、古本屋はもちろん、新刊書店でのアルバイト経験もないまま手持ちの本数百冊を並べただけで始めた店は「ままごと」以下の状態でした。そんな中で、世の中にはどんな古本があって、どんな値段がついているのか、ということを知る事ができたのは、毎月読んでいた『彷書月刊』と、近くの同業の先輩から見せてもらう月遅れの目録だけ。店はヒマだし、お客が来たら来たで「若葉マーク」でも顔面に貼っておきたいくらい緊張していた当時は、明けても暮れてもうつむいて『彷書月刊』のページを繰っていたのです。

1994年2月。店を始めた年の、その月の『彷書月刊』。
それから10年以上たって、これもひょんなことで、その『彷書月刊』に文章を書かせていただくことになった時は、本当に信じられないような気持ちでした。その原稿依頼でお電話をくださったのが田村さんとお話した初めての機会だったのですが、ちょうど「早稲田古本村通信」の連載を始めて間もない頃で、そこへ書いた、横浜の一艸堂石田書店の石田さん(『街の古本屋入門』の志多三郎さん)との交流について、「あの文章、とてもよかった。石田さんと行き来があるなんて、面白い!」とたいそう面白がってくださったのをよく覚えています。確かに、面白い組み合わせだと思います。
その後、『苔とあるく』を出した時も「ホンの情報」という新刊の紹介コーナーにとても素敵な文章を書いてくださいました。わたし以外の誰も覚えているはずはないので、ここで再度紹介させていただきます。
倉敷の古本屋「蟲文庫」さんがはじめての本をつくった。それが本の話ではなくて
苔の話というのが楽しい。イラストは浅生ハルミンさん、写真は伊沢正名さん、目
からウロコがおちて苔がはりつくような本。コラムの「父の庭」はちょっと泣ける。
カバーをはがして裏カバーをのぞくと、ちょっとオドロキますデス。
『彷書月刊』2008.1 「ホンの情報」より。
「目からウロコがおちて、苔がはりつくような本」!ですよ。こんな嬉しい言葉はありませんでした。
2年前の秋、病気が発覚する直前のこと、たまたまある人から聞かされた田村さんの症状が、亡くなった父のそれとそっくりで、一気に血の気が引きました。父は、病名が定まった後3ヶ月足らずで他界したのですが、田村さんはそれから2年間、闘病を続けてこられました。その様子は『彷書月刊』の「ナナフシの散歩道」という日記で垣間見るだけでしたが、いつもと変わらないひょうひょうとした語り口をいまあらためて思い返すと、不謹慎な言いようかもしれませんが、人は病気や生き死にというものにも、その人が現われるものなのだなと感じました。
お正月を尾道で過ごされることが多かったようで、いちど「同じ空気を吸いながら、なかなかお訪ねできません」と書かれたお年賀をいただいたことがあります。以来、お正月になると、なんとなく尾道の風景と田村さんのお顔を思い浮かべるのが習わしになっていたのですが、今年はその元日に訃報が届いてしまいました。
『彷書月刊』が昨年10月で休刊した時、誰かが『彷書月刊』はなくなったけど、『彷書月刊』の作ってきたものをそれぞれに引き継いで行く事は出来る、というようなことを言われていました。田村さんが亡くなった今、その言葉はますます自分の中に響いてくるようになったのですが、わたしにとってそれは、これからも蟲文庫を続けていくことに違いありません。
相変わらず、のんびり、が取り柄のごく普通の品揃えの地方の町の古本屋ですが、でも田村さんなら面白がってくださるかもしれないなと思います。「これでやってけるんならたいしたもんだ」とかなんとか。
田村さん、どうもありがとうございます。

『彷書月刊編集長』田村治芳(晶文社)