◆古本・倉敷「蟲文庫」◆
mushi-bunko.com

2005年07月09日

祖父母

  「祖父母」

 先日、自分の経営する古本屋の外観を写真に撮っていると、向こうから
見慣れない犬が二匹連れ立って歩いてきました。
 前を歩くのが、中型の雑種然とした犬で、その後ろにぴったりとついて
いるのが、小型でグレーの巻き毛の洋犬。その組み合わせだけでも、なん
だか面白いので、これはシャッターチャンスとばかりパチリとやっていた
ら、なんと、そのまますんなりと店の中に入っていってしまいました。

 二匹とも首輪をしていて、人にも慣れているふうですが、しかしリード
も飼い主も見当たりません。そして、実は少し犬が苦手という事情もあり
いったいどうしたものか、と遠巻きにおろおろしている私を気に留めるふ
うもなく、店の中で寝そべり、ごろごろと寛いだりじゃれあったりして、
そして小一時間くらいがたってから、また二匹連れ立って、ふいと去って
ゆきました。

 と、そんな話しを友人にすると、
「それ、誰か知り合いよ、きっと。おじいちゃんとおばあちゃんあたりじ
ゃないの?」と言うのです。
 もちろん、すぐに真に受けたわけではないですが、そう考えてみるのも
悪くないな、とぼんやり思っていると、なんだかだんだん本当に、あれは
祖父母であったような気がしてきました。

 祖父母とは、離れて暮らしていたせいもあって、なんとなくぎこちない
間柄でしたが、私が店を始めたことはやはり喜んでくれたようで、開店祝
いに訪ねてくれた
時、記念に私が撮ったスナップ写真は、本当にいい顔をしています。あん
まりいい顔なので、その写真の首から下に合成の喪服を着せたものが、翌
年相次いで亡くなった二人の遺影に使われたのでした。

 開店当初の店はというと、我ながら目を覆いたくなるような、がらんと
した、みすぼらしいもので、よくもまあ、あの店をみて、あんな笑顔がで
きたものだと、今になってつくづくと思います。
 あれから十年、苦しいながらも続いているこの店は、それでももう誰が
見ても「本屋さん」とわかるようなものになりました。
 そうだ、今のこの店を、おじいちゃんとおばあちゃんに見てもらいたか
ったなあ。と、そんなことをつらつら考えているうちに、私の心の中では
もうすっかりあの二匹の犬は、姿を変えた祖父母ということに落ち着いて
いたのでした。

 そういえば、やはりあれから一度も見かけないのです。


                    (瀬戸内作文連盟 vol.1)
                      2004年9月


sofub1.jpg 

sofub2.jpg

posted by 蟲文庫 at 20:35 | 過去の文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月08日

苔観察日常

DSCN0406.jpg



 何年も前に、苔植物の生態を解説すべく書いた文章です。


    『苔観察日常』

                      田中美穂
                         

 雨上がりの、苔むした岩の手触りというものは、とても気持ちのいいもの
です。雨水を含んだ、あのつつましく美しいみどりは、しっとりとやわらか
くて、山に特有のふわりとした甘い匂いの中、するするするすると無心に撫
でつづけている自分にはっとすることもあります。

 たぶんもう何年も何十年も、きっと誰も触ってはいないだろうと思われる
深い山の中にある苔でも、指先で軽くつまんだだけで、あっけないくらい簡
単にはがれてしまいます。それというのも、苔は根のような根でないような
ヒョロヒョロとしたヒゲのようなもので地面や岩にくっついていて、他の植
物のように、そこから養分を吸収するというのではなく、主に体の表面から
空気中のかすかな湿り気だとか陽の光を取り込んで、それを自分の中で栄養
分に変えていくことによって生活しているのだそうです。生えるというより
は、むしろ「湧く」という言葉のほうがぴったりくるような、その場所のそ
の環境ゆえにそこにいるといったふうでもあって、本当に「霞くって生きて
る」のだから、なんというかっこよさだろうと羨ましくなります。
 そんなだから、いたずらにぺりぺりはがしてしまった後も、またそっと元
にもどして上から軽くぽんぽんとたたいておけば、たいがいは大丈夫です。
(注:でも、むやみにぺりぺりはしないでください。

 私は、「岡山コケの会」という、苔観察や研究、苔庭、苔写真などに興味
のある人々の集まりの中の、観察と研究を主としている班に所属しています。
ここは苔の研究でご飯を食べているという、本物の研究者の先生がたを中心
に、かなりアカデミックな活動もしているのですが、しかし私のように、
「なんだか苔が好きなので」というような漠然とした主体性のない初心者に
も、きちんとそれなりの応対をして下さる、とても良心的なところです。
 そこで現在私は初歩段階である、「ぱっと見ただけで、その苔の名前がわ
かるようになる」ことを目標に活動しているのですが、そもそも、どうして
苔なのか、ということを考えてみると、高校生の頃に何気なく入った生物部
で、当時の顧問の先生が専門としてた変形菌(森や林の中の朽ちた倒木など
に生える菌類の一種。一生の間に動物的な時期と植物的な時期とがある、非
常に魅惑的で面白い生態をもっている。粘菌ともいい、数年前に南方熊楠が
らみで一躍有名に)の採集に、あちこちの山をついて歩くことになりました。
その奇妙で多彩な様子にはこころ奪われるものがありましたが、たとえば、
梅雨の晴れ間の雑木林を分け入り、這いずり回って探す、しかも、ものすご
く小さいので、相当の慣れと勘がないと見つからない、ということなどをは
じめ、私のような軟弱者の個人的な趣味にするには、少々ディープかつハー
ドな世界で、早い話が挫折したのです。そんな時、ふいと意識しはじめたの
が、いつでもどこでも「当然」といった風情で「そこ」にある苔の存在で、
本格的に取り組みはじめたのも、観察方法が変形菌とほぼ同じで、しかも数
段ラクであるという安易な理由からだったのです。しかし、いざ向き合って
みると、苔というものは、そんな理科的な関心以上に、満ちることをを好ま
ず、陰や隅というものにこを心を配る、私たち日本人の生活や精神面と深く
かかわってくる、不思議な存在感をもっていることにと気が付くようになり
ました。それが苔に惹かれる一番大きな理由のように思います。そして苔に
しても変形菌にしても、日常、あまり人々に顧みられない存在であるにもか
かわらず、一歩足を踏み入れてみると、その多様さや生態は驚くほどドラマ
チックで、その落差が、「隠花植物」の「隠花植物」と呼ばれるにふさわし
い魅力であるようにも感じています。

 苔植物は、正式には「蘚苔類」(せんたいるい)といって、スギゴケなど
に代表される蘚類と、ゼニゴケなどの苔類、そして数種のツノゴケ類を含み
ます。よく古い木の幹や石垣などに、べたっと張り付いている、灰緑色やに
ぶい黄色をした苔のようなものがありますが、あれは「地衣類」といって、
どちらかというと水の中の藻に近い生き物になります。苔が生えているとこ
ろといえば、すぐに森の中の暗くて湿っぽい場所を連想します。確かに大部
分の苔はそういういうところが大好きですが、でも実際には、意外と何処に
でも生えているもので、たとえば町中でも不通に見られるものに、ギンゴケ
というのがありますが、その名のとおり周りの緑の苔とはあきらかに違う、
印象的な美しい銀白色で、小型ながら遠目にも簡単に見つけることができま
す。このギンゴケは、比較的日当たりのいい場所を好み、過酷な環境にも難
なく適応できる非常に強い種類で、都会の舗道の上から、静かな山奥、富士
山頂、果てはわずかな苔類意外は成育出来ないといわれる南極にまで生えて
いるそうです。すごいのです。

 とはいえ、苔観察というからには、醍醐味はやはり山歩きです。あまり人
の手の入っていない、うっそうとした原生林の残っている、しかも滝のある
ような空中湿度の高い場所なら、いうことはありません。そういう所はすこ
し遠くからでもなんとなく、ふっくらと豊かな雰囲気が漂っています。そし
てもう少し近づくと、一粒一粒が眼に見えそうな、ひんやりとした水蒸気の
粒子が皮膚に染み込んでくるようで、不思議な安心感とそしていくらかの息
苦しさを覚えます。さまざまな種類の苔が、どれも本当にみずみずしく嬉し
そうで、コウヤノマンネングサという大型の美しい苔や、野外でも肉眼で葉
細胞を見る事ができる、薄くて柔らかい葉を持つアブラゴケなど、はるばる
足を伸ばした甲斐をしみじみとおもわせてくれるものたちを目にすることも
できます。
 そんな場所なのだから、ただ眺めて歩くだけのほうが、たぶんずっと楽し
くて気持ちがいいのだろうとは思うのですが、私の場合は一応、「ぱっと見
ただけで種類の同定ができるようになる」というのが目標なので、苔目的の
山歩きとなると、いきおい可愛げないものになってしまうのです。
 地図を広げ、大体の見当をつけると、車の運転の出来ない私は、まず友人
を拝み倒して、無理矢理、「しょうがいないなあ」との了解を得た後に、ル
ーペ、採集袋、小型ナイフ、方位磁石、高度計、野帳、筆記用具を準備して
出掛けます(この場合、同行を願う友人が、必ず大人しくてのんびりとした
性格の人でないといけません)。

 目的地に到着したら、あとはただひたすら下を向いて歩くだけです。まず
視線は常に自分の膝から下あたり、左右をちらちらみやりながら一歩一歩前
へ。そして何か見つけようものなら、ルーペを片目に、かがみこんで這いつ
くばって、「あぁ、チョウチンゴケの仲間かな、ええっとこっちのヒトは..
..」などと、独りぶつぶつ言いながら、ためつすがめつすることになるので
すが、言うまでもなく、苔というのは本当に小さな生き物なので、はっきり
とした見分けがつきにくく、ましてや私は駆け出しなので、殆どのものは
「これとこれは違う」ということくらいしかわかりません。
 そこで用意しいていた採集袋に、ほんのひとつまみを持ち帰って、図鑑を
繰り、顕微鏡を覗き込んで、名前をつけていきます。(この「名前をつける」
というのは、種の同定作業のことで、自分で勝手に好きな名前をつける、と
いう意味ではありません。でもムクムクゴケだとかツチノウエノタマゴケな
んていう、どうもてきとうに付けたとしか思えない名前を持つものも少なく
はないのですが)

 そしてこの顕微鏡観察という段階も楽しみのひとつで、肉眼では見分けが
付かない、小さな小さな苔の葉を、すこしフェティッシュな色気すら感じさ
せる程の精巧さを持つ精密ピンセットで、ひとつひとつ取り外して、2枚の
ガラスに挟んだプレパラートをつくり、葉の形や葉身細胞を確認します。
「苔の美は顕微鏡下にこそ」といわれるように、接眼レンズをのぞきながら、
ゆっくりとピントを合わせていくと、その象を結んだ瞬間は、眩暈のような、
なんだか自分の身体の大きさや重さがわからなくなるような、えもいわれぬ
心地よい感覚がひろがります。これはたまりません。「いつの日か、あのト
ロトロした緑の細胞の海にわたしも混ぜてもらいたい........」などと夢見
ています。

 こうしてなにかと脱線しつつも、少しずつ名前つけを進めていきます。外
出がおっくうになる真冬などは、この作業にうってつけで、それまでに採り
ためていた標本予備軍を、少しずつ片づけにかかるのですが、冷えきったし
んとした真夜中に、少し調子に乗って、エドガー・プローゼの羊歯の写真も
美しいジャケットのLP『ypsilon in malaysian pale』などをかけて、体
感温度がさらに下がるような、時間の感覚を失わせる、静謐でミニマルな音
世界に浸って顕微鏡を覗いていると、もう、私の細胞までが恍惚としてきて
やはりなかなか作業ははかどりません。しかし、そうこうしつつもようやく
何ものなのかが判った苔は、学名、和名、採集場所、生育基物(生えている
場所のこと。例えば、岩上とか切り株など)等の必要な情報を書き込んだ標
本ラベルをつけ、私の標本庫にしまわれます。これでひとまず一連の作業は
完了します。正直言ってなかなか面倒なのですが、でもここまでやっておけ
ば、これはもう立派な科学的証拠標本になりますし、自然の一部を私有化す
るということで、これが採集者としての当然のモラルだろうという意見には
私も頷くしかないので、なんとかがんばっています。

 ところで苔というのは、このような乾燥した状態のまま、当分は「眠って」
いるのだそうで、なにかのきっかけで条件が揃えば、またなんでもない顔を
して、再び胞子を飛ばし、発芽して、それがまた胞子体をつくり........と
いうふうなライフサイクルを繰り返すこともできるというのです。苔植物は
菌類や藻類と羊歯植物の中間くらい、動物でいうなら両生類のような存在で
何億年も太古の昔、最初に陸へあがった緑だといわれています。そして、そ
れが今もこうして私達の身の回りで普通に生きているのを見ていると、永瀬
清子さんの『苔について』という詩にあるのですが、「あぁ、人間の負けだ
なあ」という思いがします。といってもちろん、苔に勝ちたいという訳では
ありませんが、ただ、私達がほんとうにもろくて頼りない存在なんだという
自覚をもってみると、地面すれすれのところにいながら、誰も煩らわせるこ
となく、だまってきちんと丁寧に生き続けているという、苔のそのゆるぎな
い力強さを前にして、なんだか恥ずかしくなってしまうのです。もちろん、
いつもそんなことを考えながら、苔にむかっている訳ではありませんが、公
園や川のほとりをぶらぶらしながら、遠目に眺めたり、座り込んでぼんやり
撫でてみたりしている時間は、そんなに優雅ではない日常の中で、ものぐさ
の私が、どうしても取り落としてしまっている、時にはわざと見て見ぬふり
をしている事柄に、あらためて向き合い、拾い上げて、そうして出来るもの
なら慈しむ、という、少し痛みのある過程を引き出してくれるような気がし
ます。

 私は、生まれ育った倉敷市で、「蟲文庫」という古本屋をしています。数
年前に移転した今の店は、私の子供の頃からのお散歩コースでもある、鶴形
山という、小高い丘陵地を背にして建っているのですが、ここは倉敷の市街
地の中に、ぽっかりと島のようにある鎮守の森で、店の中から眺めることの
出来る裏庭は、その山裾の石垣をそのまま取り込むようにできている、素晴
しい日陰の庭です。
おかげで、以前から好きで育てていた羊歯や苔の育ちがいいこと、これだけ
でも引っ越した甲斐があったと思うほどです。今のところは、もともと生え
ている蔓性の植物を含め、放っておいても育つものだけに育ってもらってい
るという状態で、当分はこのままを愉しもうと思っていますが、でも最近
「庭」とか「庭園」というものの考え方にも興味があって、たとえば、島国
である日本では、古くは「庭」と「島」とが同じ意味で使われていたそうで
す。島のような森にある我が家の庭、そう考えただけでも鳥肌がたちます。
これはひとつ、ちょっとした庭でもつくらねば、という考えも浮かんできま
すが、でもそういえば、平安時代の世界最古級といわれる造園技術書に「庭
をつくるには石の乞わんに従う」、ようするに自然の求むるままに、という
ようなことが書かれてあるそうです。「あ、じゃあやっぱりこのままのほう
がいいかも」と、早くも怠け者の私が都合のいいように解釈してしまうので
我ながらあまり期待は持てません。


                     
                     2001年11月
                     (water magazine 9号)
posted by 蟲文庫 at 18:57 | 過去の文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。