そういえば、「変態ー昆虫や魚などが発育とともに、その形を変えてゆく様子」と「変態ー変態性欲、またはその傾向を持つ人」は、同じ字を書くんですよね。ふ〜ん・・。そして、ブログ内にこういう語句を用いると、変なトラックバックがいっぱいくるのです。別にいいけど。
数日前に配信された、早稲田古書店街の運営するメルマガ《早稲田古本村通信》(
http://www.mag2.com/m/0000106202.htm 配信登録は無料です)。昨年春に、おっかなびっくり連載をはじめて、はや1年と3ヶ月。正直言って、こんなに続くとは思いませんでした。今後も、どこまで続けられるかは、まったく見当はついていないのですが。ほんと、来月、何書こうかなー。
さて、この連載、いまのところ、まとまった形でのバックナンバーの公開はしていないのですが、今月号に書いたものは、インターネット上ならではのものだったので、さっそくこちらに再録。
1993年末〜2000年夏までの「蟲文庫1号」の変遷の様子です。なんか、「お育ちは隠せませんねえ」という感じですね。
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早稲田古本村通信 連載『蟲文庫の「めくるめく固着生活」』
第15回『蟲の変態』
「そういや、田中さんところ、最初は駄菓子も売っとったよなあ」。
『ちくま』の岡崎武志さんによる連載、「古本屋は女に向いた職業 - 女性古書店主列伝」、倉敷駅前《ふるほんや 読楽館》の森川さんが、わたしの取り上げていただいた回を読んで、その感想を伝えにきてくれた時の開口一番がこれでした。
そう、すっかり忘れていましたが、そういえば、蟲文庫は最初、古本と駄菓子の店でした。もちろん、自らそう名乗っていたわけではないのですが、売るべき本が揃わない隙間だらけの本棚とくらべると、帳場横の駄菓子コーナーのほうが、確実に華やかだったのです。わたし自身はあくまで古本屋だと思っていましたが、お客さんから見れば、きっとこちらのほうが印象に残ったことでしょう。
なぜ駄菓子だったのか、というと、それはひとえに「安いから」でした。お金がなくて組合にも加入できず、ろくに本も仕入れられないような古本屋が、こマシな雑貨や文房具などを扱えるわけがありません。その点、駄菓子なら、黒棒やわた菓子、花串などが、ひとつあたり10円以下で仕入れられました。今時、こんなに安いものは他にありませんし、あの懐かしいような、どこか胡散臭いような雰囲気は古本屋にぴったりだったのです。
そして、「いやぁ、これを読んだら、すっかり忘れとったことも思い出してきたわあ」と思い出話に花が咲き、あれこれと昔の写真を引っぱり出してみました。なにやら幼虫の変態の如しです。
1993年12月、開店準備中。中で本棚を作っていた頃です。

当時、ハタチそこそこの小娘だったため、不動産屋がなかなか相手にしてくれず、物件探しには苦労を強いられました。
最近、遅ればせながら『古本屋残酷物語』志賀浩二 著(平安工房)を読んだのですが、あの、アルミサッシの入り口。うちは引き戸ではありませんでしたが、わりと似た感じです。しかも、屋根のラインをみればわかるように、かなり傾いた建物でした。この殺風景な感じは、いまでも「悪くないな」と思っています。
ところで、この《揚羽堂》のご店主、志賀さんは、《志賀昆蟲普及社》とは関係はないのでしょうか? 「揚羽」堂の「志賀」さん、ということで、勝手に連想してしまったのです。あ、脱線しました。すみません。
1994年2月、なんとかオープンしました、の図。

内装も外装もあったもんじゃありませんが、どこか「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」((C)早川義夫)と本気で思っていたフシもありました。だから、均一はみかん箱でなくてはいけない、と思っていました。アホですね。
ブロックをラスタカラーに塗っているのが精一杯の色気といったところです。
1995年、辛くも2年目に突入。

友人がイラスト入りの看板を作ってくれたのはいいのですが、肝心の屋号が入っていない(ので、紙に書いて貼付けている)上、巨大すぎて、いったい何屋さんなのか、わけがわからなくなってしまいました。いかがわしい芝居小屋と間違われたこともありましたが、無理からぬことだと思います。胡散臭さ満点だった頃です。
1996年、3年続けば10年続くと言われながら、暗中模索していた3年目。

さすがにあの看板は問題がある、ということで撤去。アルミサッシを苔色のペンキで塗り、厚手の和紙に虫偏の漢字をたくさん書いて貼付け、いくらかでも「文化の香り」を醸し出そうとしていました。
1997年、貧乏も板についてきた4年目。

粗大ごみの日にドアを拾ったので、知り合いの大工さんに頼んで改装に踏み切りました。だいぶお店屋さんらしくなり、「前から気にはなっていたんだけど、怖くて入れなかったのよ」なんて言いながら入ってこられる方も増えてきた頃です。
棟続きにお住まいだった大家さんは、気むずかしいことで知られる高齢の女性でしたが、店子自身の負担で造作を変える分には、特に口出しはされませんでした。
1998年、すっかり居直っている5年目。

立て看板にイラストなどを添える色気も出てきました。植物も順調に育っており、なんとか自分なりのペースも掴めてきた頃です。
ここまでの5年間のうちに、駅構内のアートコーヒー、パン屋のサンドイッチ製造、ヤマザキデイリーストア・・と早朝のアルバイトを点々としていましたが、この年の末頃から夜間の郵便局へ行くようになりました。そしてそれを2004年秋まで続けました。
1999年 同上6年目。

中はこんな感じでした。

今よりも、むしろ古本以外のものを多く扱っていました。思えば、これはこれでひとつの形になっていたような気がしますが、品揃えもお客さんの層も、本来の自分の「性質」とは、いくぶんズレがあったようにも思います。
たしかこの頃だったと思いますが、行き来のあった、仙台「かたつむり社」の加藤哲夫さんから「前にうちで働いてた女の子が、いきなり古本屋始めるって言い出しちゃって・・言い出したらきかない人だから、もし何かあったら相談に乗ってあげてくださいね」という心配そうな電話がかかってきました。自分自身の体験からも予想したとおり、実際にその「女の子」から相談を受けることはありませんでしたが、それが、あの《book cafe 火星の庭》の前野久美子さんのことだったのでした。
そして2000年、思いもしなかった突然の移転。

ある日、子供の頃から馴染のある、白壁の本町通りを自転車でぶらぶらしていたところ、貸店舗を発見。おや、ここは最初に店を始める時、「こんなところで出来たら良いなあ」と憧れていた、まさにその物件ではないですか。その場で移転を決意。
思い立ってから実際に引っ越してしまうまで、たったの3ヶ月でした。多くの友人知人が手を貸してくれたおかげです。そして、これだけ、元の状態に戻しようがない程いじったにも関わらず、大家さんからは敷金礼金が全額返済され、さらには「がんばって続けてください」とお餞別までいただきました。
そして今に至ります。

よくぞ続いてきたものだ、とつくづく思います。みなさんのご厚意の賜物であるとしか言いようがありません。
田中美穂