で、実際、地図を頼りに辿り着いたその店は、思った通りで、その「期待できない」という予想を裏切らない品揃えではあったのですが、それはともかくこの古本屋、なんとクリーニング屋と兼業なのです。50歳代くらいの女性が、クリーニングの受け渡しの、あの白い台のところで、ビニールのかかった洗濯済みの洋服群を背に店番をしていて、古本も、そこへ持って行って会計をするのです。
内堀弘さんの『石神井書林 日録』(晶文社)に、たしかそんなお店のことが出て来たはず、と思って岡山に帰ってから確かめてみると、その当時(この本に「15年ほど前」とあるので、たぶん25年くらいは前)の品揃えとはすっかり変っているにしても、やはり「ひょっとしたら、この店のことなのではないか」と思えなくもありませんでした(p97 の『平戸廉吉詩集』に挟まっていたビラについてのくだりです)。
ただ、もし本当にこの店だったとしたら、その時のご主人は、おそらく、もうご健在ではないのではないか、という気もしました。当時は「クリーニング屋を兼業」だったものが逆転して「古本屋を兼業」になった、というか、もっと言えば「クリーニング屋なんだけど、古本屋もまだやっている」という、そんな感じすらありました。ガラガラとクリーニング屋の引き戸を開けて、「すみません、古本みせてください」と言って、はじめて古本コーナーに電気がつけられた、といった具合です。
もう長いあいだ整理されていないと思われる棚の一角に、なぜか教養文庫だけがまとまって並んでいて、しかも、けっこういいお値段がついている。でもまあ記念にと思って2冊ほど選んで、例のクリーニングのレジに持っていくと、そんなことはどこにも書かれてはないけれど、文庫は80円均一ということでした。160円を払って店を出て、しばらく外観を眺めてから、また駅まで戻りました。なんだか、つげ義春の漫画の中にいるみたいでした。
駅に戻る途中。

能登ねこ2匹。
戻ってすぐの日記にも書いたように、思いのほかスムースにことが運んだため、予定よりかなり早い段階で「よし、今回の能登は終了!」という気持ちに。これが23日の夕方、七尾線のとある無人駅でのことです。
選択肢としては「金沢に一泊して観光」「京都まで戻る」「岡山に帰る」で、せっかくここまで来ているのだから金沢、という気持ちもあったのですが、それでも結局、京都まで戻るほうに傾いたのは、たぶん、このたびの旅行中ずっと、加能作次郎の小説が頭に浮かんでいたせいだと思います。加能作次郎は能登生まれの作家ですが、京都に出て丁稚奉公をしていた頃の出来事に材をとったお話しがよく知られています。なんとなく、京都の人の言葉がききたくなった、というか。
で、そんなこんなで、その日最終の「特急雷鳥」に乗り、数時間後にはネイティブ京都のCちゃんちまで辿り着き、翌日は京都の町を歩き、古本屋のおやじさんから「へぇ、おおきに」と言われ、ガケの山下さんにもあい、その欲求は満たされたのでした。
扉野良人さんの『ボマルツォのどんぐり』(晶文社)に、羽咋から少し行ったところにある加能作次郎の生家や文学碑を訪ねる「能登へ」という文章があります。扉野さんは京都の方なので、
加能作次郎の所縁の土地を幼年期から少年期へと地理的にさかのぼるものになっている
ことに一種の感慨があった(中略)小説の世界を、じっさい歩く風景のまま、そこにい
るように読むことができた。
と書かれていて、これはちょうどわたしが木山捷平を読んでいる時に感じるものに近い感覚なのかな、とそんなことも思いました。
ちなみに、加能作次郎を最初に読んだのは、『大東京繁昌記(山手篇)』の「早稲田神楽坂」です。床屋の鏡の話。
それにしても、いまこの文章を引くために、あらためて扉野さんの「能登へ」を読み返していたら、もしかしてその時、例の古本とクリーニングの店にも行かれたのではなかろうか、という気もしてきました。その後、その町へと移動されてたようなことがちらっと書かれてありますし、なにしろ、荻原魚雷さんから聞いた話では、扉野さんは移転前の蟲文庫1号店にもいらしたことがあるそうなのですよ。・・・それはまた、レアな。

小さな雨が落ち始めた夕方の七尾湾。
(能登の旅、もうちょっと続く)

